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韓国はいまだ、日本の事を悪く伝え、ばかりが広まってしまっています。

もしも

植民地として日本が韓国を扱っていたのならば

その植民地とした国は自分の国よりもに見るはずです。

日本は何故こんなにも韓国に献身的に援助してきたのか・・・

それは日本が韓国を親族として迎え入れようとしていたからに違いありません。

その証拠に

実は日本から韓国の王の所へ日本の皇族が嫁いだ事は、あまり知られていません。

韓国を植民地にしていたのならば、王族同士を結婚させるなんて事は絶対ありえないはずなのです。

日韓の架け橋となるべく嫁いだ皇女「李・方子妃」(日本の皇族)

大正5年(1916)8月3日朝に別邸で夏を過ごしていた梨本宮方子(なしもののみや・まさこ)妃は、いつものように新聞を拡げ「あっ」と声をあげました。

李王世子の御慶事-梨本宮方子女王とご婚約

という大見出しとともに、自分の袴姿と大韓帝国皇太子・垠殿下の写真が並んでいたのです。

方子様は何故突然異国の人といきなり結婚しないといけないのか激しく泣いたと聞きます。

この時の方子様は15歳ですよ?

ですが、方子様は東京に帰って毅然とした態度できっぱりと答えたのです。

よくわかりました。大変なお役だとは思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます」と

そこから日韓の架け橋となるべく激動の人生が始まっていきます。

2学期が始まって

学習院では「方子様は皇太子王妃におなりになる。でも朝鮮のお方が相手ではね」と学友達はささやきあっていました。

ですが方子様は髪を中心からわけて結う韓国式の髪型で毅然として胸を張って登校していきました。

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その方子様の覚悟に皆関心したといいます。

それに韓国の

垠の父李大王は方子妃との婚儀を大変に喜んだそうです。

それは方子妃は皇族であり、何より皇太子だった昭和天皇のお后候補の1人とされていた方な為に、「日本皇太子と同等」という扱いと理解していた為です。

そして2人の婚儀後2年後にかわいい子供が生まれました。

将来の日韓を予言するような悲劇

方子様と韓国の皇子は日本で子供を生み、一家は始めて朝鮮に帰る事になりました。

方子の母は韓国にいくのを最期まで反対をしましたが、朝鮮側の強い要望に押し切られ、朝鮮の宮殿に行きました。

心配はしていたものの朝鮮側の強烈な歓迎に不安も吹き飛び、8ヶ月の子供も女官達に人気でした。

そして2週間がすぎ、お別れの晩餐会の後に悲劇は訪れます。

侍従が半狂乱になって飛び出してきました「若宮様のご容態が!」

方子様が無我夢中で駆けつけると、8ヶ月の自分の子供は、青緑色のものをはき続け最期は亡くなってしまいました

日本の医師達は急性消化不良と断定しましたが

方子様や多くの人は毒殺に違いないと思ったようです。

方子様たちは再び日本に帰り

それから2回の流産を経てようやく出来た男の子に方子様は涙を流したそうです。

だって子供が出来なかったら皇族が途絶えますからね

終戦後の日本の酷い仕打ち

昭和20年8月、日本が敗戦を迎えると、占領軍司令部は各皇族の特権の剥奪にとりかかります。

宮内庁から支給されていたお金も停止され、高額の財産税が賦課されました。李王家もね・・・

昭和天皇が特に行く末を案じられましたが

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2人は皇族の身分を奪われ財産の大半を税金で取り上げられ、残った宅地などもペテン師に奪われます。

そして方子様はこれからの事を思い覚悟しました。

「これから私が強くなって殿下はそっと静かに、したいように暮らしていただこう、戦うのも私、守るのも私なのだ」

方子様たちは反日感情渦巻く韓国へ

そして方子様の旦那様の殿下はというと、実は脳血栓で倒れます。

その後

韓国でクーデターに成功した朴正煕が、日本に行った殿下の容態を心配して生活費療養費を韓国政府が保証するので帰国してくださいと連絡をしてきたのです。

昭和38年(1963)11月22日2人は大韓民国へ帰ります。

ベッドに寝たままの殿下を病院車に乗せ、ソウルの聖母病院に直行した2人

方子様は、たとえ一歩でも半歩でも良いから殿下の足で故郷の土を踏ませたかった、と切なく思っていたそうです。

当時の韓国は反日感情が沸き起こっており、「電柱が高いのもポストが赤いのもみんな日本が悪い」とされるほど酷いものでした。

つまり、元日本人の方子様への態度も酷かったようです(汗

人生の最期の時を韓国の障害者の子供達の為に

韓国ではポリオなどで麻痺した子供達は、家族の恥として家の中に閉じ込められていました。

方子様はそんな子供達の力を引き出し育てる事を目指そうと思い、新聞に心身障害児募集の広告を出すと、たった一人の8歳の女の子の応募がありました。

交通費程度で来てくれる優秀な若い先生をみつけ、大学の部屋を間借りしたり、机などは古道具屋を回って調達し、ポリオがあの家にいると聞くと訪ねていきました。

最初は怖がられたものの

そうこうしているうちに、一年後に障害者の児童は10人ほど集まりました。

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政府から支給される生活費は旦那様の入院費と生活費で、ほとんど消えます。

方子様は資金を稼ぐために、趣味で作っていた七宝焼きを売る事を始めました。

足踏みバーナーで長時間火を起こしていると、足ははれ上がるし夏の暑い日には熱気で汗だくです。

この時すでに60歳半ばなので、重労働だったでしょうね・・・

子供達が増え、さらに資金を調達するために、王朝衣装ショーを始めました。自らも宮中衣装を着て海外を廻った、これに韓国は権威と誇りを大事にしてもらいたいという非難が出ていたのですが

そんな事おかまいなしに、80歳をすぎても海外でのショーを続けました。

方子様は帰ると手に泡だらけで抱きついてこようとする子供達に、よそゆきの洋服が泡だらけになるのもかまわず、1人1人に「ただいま」と顔をのぞきこみます。

この行為に在日韓国人の権炳裕は胸がつまり、この方の為ならどんな応援もしようと心に誓ったといいます。(権さんはのちに在日大韓民国婦人会中央本部会長になります)

その後、平成元年(1989)方子様は87歳でお亡くなりになります。

この時、方子様の韓国の国民の信頼は大きくなっており、多くの韓国の国民が方子様を見送っています。

最期に

方子様は日本の元皇族宮家の第一皇女子として生まれ、李垠(旧大韓帝国、高宗第七皇子)に嫁ぎました。

2人の結婚後

最初に日本で暮らしていた為か

韓国の一般市民たちの間では逆に皇太子を人質にとられたと思っていたようです。

物凄く献身的に人の為に生きた方子様

数奇な運命ですが最期はこう言っていたといいます。

「1人の女性として、妻として、私は決して不幸ではなかった」と

私はこの人の人生

自分の事よりも他の人の事を一生懸命すぎて、泣けてくるなーって思ってしまいましたw

方子様が願っていたように、韓国と日本ももっと仲良くなれればよいのですが、このままでは無駄に終わりそうですよね(汗

せめて韓国が嘘をつかない信頼できる国にならない限りは、色々あった二つの国の仲直りは難しいのではないかと思います。

献身的な方子様の思いが韓国と日本に届きますように・・・

最期までお読みいただきありがとうございました。

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